自分が楽しく働きながら人生100年を生きていく

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三つ子の魂100までも

この建築の業界へ入ったのは25歳のときですから、比較的遅いほうです。
企業案内 の代表紹介ところでその経緯を書いたとおりです。

1966年頃の写真。左から宮沢章夫、太田兄、筆者。昔の掛川城の城壁にて

それより時代をさかのぼって幼少期の話。親戚の工務店は同じ町内にありました。そこには同い年の遊び仲間である従姉妹もいましたのでしょっちゅうそちらの家に入り浸っておりましたから、かなり早い段階から大工さん文化には触れていたような気がします。小さなころから紙を切り貼りしたり、木っ端を使って何かしらを拵えるのが好きだったのはそういった環境に育ったからということがあると思います。
なにしろ木切れ材料と大工道具といざというときに助けてもらえる技能が身の近くにふんだんにありましたのでね。その当時、昭和45年ぐらいでしょうか、まだ職人の徒弟制度があった時代で住み込みの若い見習いの大工さんがいて、よくかわいがってもらいましたね。この時代にどうも好きなものと嫌いなものが自分の中に出来上がったような気がします。

昭和時代の工務店~宮沢章夫の記事より

その頃の工務店業界の様子は従兄弟の宮沢章夫が書いた1997年10月9日の週刊文春『「家」の履歴書 宮沢章夫』の記事 でも触れられています。自宅がある日突然3階建てになっていたとか、どこへ通じるかわからない階段などという文章中の表現はけっして誇張ではなく、私も経験したミラクルな事実でした。
以前この記事をサイトへ転載した時のデータが見つかりましたので、ここで復元しておきます。
昭和時代、工務店が元気だった頃の様子が描かれています。

「世間体」というドリームキラー

さて話があらぬ方向へと脱線しましたが、私はその後の教育課程で高校の普通科へと進学し最終的には地元の国立大学の電気工学科へと進みました。中途半端に学業が優秀だったからです。本心はモノづくりの職人の世界が好きだったんですが、プライドが服を着て歩いているような嫌なヤツにすっかり出来上がってしましまったのでした。そういう画一化された価値観の時代だったんです。この素直でなかった私は将来えらい苦労することになるんですけども。その辺のお話はまたの機会としましょう。かなり破天荒です。

「願い」は心の奥底でくすぶり続ける

さて25歳ぐらいに建築の世界へ入った私ですが、幼少期に培われた欲望が心の片隅でずっとブスブスとくすぶり続けました。現場で職人さんの仕事を見ていると自分でもやってみたくなるのです。椅子に座ってする「座業」が嫌いなわけではありません。設計をしたりパソコンを弄ったりするのも大好きなのです。いきおい、ワーカホリック状態に陥ることが多くなりました。会社の中ではそういう私の性癖を叱責されることもしばしばで、そのたびに「俺は職人ではない。設計者なんだ。建築家なんだ。」と無理やり自分を鼓舞し続けたのです。ですが結局、無意識層に刻まれた本心には敵いません。私は自分の手を使って何かものを作ることが本来好きなのです。この欲望はサラリーマン組織になってしまった現代の工務店では受け入れられることは決してありませんでした。しかも現代では工務店の内部には大工職がいない事が多く、ほとんどが外注扱いです。私は大工さんがいる工務店に執着しました。そういう場であれば自分で手を出して作業する私に何らかの価値を見出してくれるだろうという淡い期待があったのです。しかし工務店は工事請負して設計どおりの建物を作る工事管理の業務が主体となっています。

それでも夢を追い続ける

現代版棟梁お抱え大工さんが多数いる工務店を再興することはおそらく現代では難しいと思います。でも自分で起業して工務店を経営するのであれば、少しは自分の思いを実現できるかもしれません。人生100年の折返しを過ぎ、コロナで世の中がガラッと変わりつつある今がチャンスです。

設計者でありながら施工を行うアーキテクトビルダーという考え方があります。
たぶん25歳ぐらいに出会った本です。これが私を支えてくれました。いつかこんな事ができるといいなと思い続けました。
今なかなか手に入らない本みたいですね。
イラスト大きくて大人の絵本的な感じです。
説明によれば「計画・設計から施工までを一手に担う、現代版棟梁とも言うべき『アーキテクトビルダー』の重要性を提唱する。」って
この現代版棟梁ってとこがいいんですよ。

どうせならノマドワーカー的に出来ないだろうか?

「インターネットの発達によってクリエイターが時間と場所にとらわれず活躍する時代がくる」と予言したのはフランスの社会学者ジャック・アタリでした。

電子ツールを使って好きな場所で好きな時に仕事をする
身を軽くして自由に飛び回りたい
趣味と仕事を同じにする 
それが私の願いです